ジャンルを問わず一年中、映画漬けの生活を送っている、自称ゆるーい映画オタク⁉の私が
独断と偏見でオススメする今日の一本は、日本の映画でヒューマンドラマ「ドライブ・マイ・カー」です。
引用元:ドライブ・マイ・カー / © 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
作品紹介
舞台俳優であり演出家の主人公は、愛する妻と満ち足りた日々を送っていた。
しかし妻は突然、秘密を残してこの世を去ってしまう。
2年後、広島での演劇祭に愛車で向かう主人公は、ある過去を抱える寡黙な専属のドライバーと出会うことで、それまで目を背けてきたある事に気づかされていく。
最愛の妻を失った男が、葛藤の果てにたどり着く先にあるのは・・・
妻を亡くした舞台俳優を主人公に、彼が演出する多言語舞台の様子や、そこに出演する俳優たち、主人公の愛車を運転する専属ドライバーの女性との関わりが描かれた物語です。
本作は、村上 春樹の同名小説である「ドライブ・マイ・カー」を基本に、同じく村上 春樹の短編小説「シェエラザード」「木野」、短編小説集「女のいない男たち」の内容や、アントン・チェーホフの戯曲「ワーニャ伯父さん」の台詞を織り交ぜ、新しい物語として構成されました。
また監督には、批評家から高い評価を受けた映画「ハッピー・アワー」を含む、商業映画としては3作目となる濱口 竜介がメガホンをとり、この作品は世界で高い評価を受けるまでになりました。
そして世界各国で映画賞を受賞し、濱口監督の国際評価を一気に高めることとなり、今後の活躍が大いに期待されます。
本作は、第87回ニューヨーク映画批評家協会賞で日本映画としてはじめて作品賞を受賞したほか、ロサンゼルス映画批評家協会と全米映画批評家協会でも作品賞を受賞しました。 これら3つ全てで作品賞を受賞した作品は、これで6作品目、外国映画としては史上初の快挙だそうです。
さらに、第74回カンヌ国際映画祭で、脚本賞をはじめ3部門を受賞。
第94回アカデミー賞では、4部門にノミネートされ、2009年の「おくりびと」以来となる国際長編映画賞を受賞しました。
他にも数々の賞を受賞した、観る者の魂を震わせる作品となっております。
引用元:YouTube公式より / 「ドライブ・マイ・カー」
見どころ&おすすめ
フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にし、短い会話を通して物語を展開させる表現方法が独特で、この手法は濱口 竜介監督の特徴を良く表してる作品です。
まず、村上 春樹の短編小説を映画化したところがポイントです。
忠実に映像化しても、なかなか高評価されない場合がある中、原作の本質を十分に理解し、自ら脚本を手掛け映画化しました。 それに加えて濱口監督の独自な表現方法で作品を昇華させたのが、見どころのひとつです。
加えて、主演の西島 秀俊が演じる、行き場のない喪失感を抱えながらも、希望を見つけ少しずつ一歩を踏み出す主人公の心の微妙な移り変わりの描写が、繊細で印象的です。 ここが、この映画最大のポイントだと思います。
約3時間もの長尺作品ですが、村上 春樹の中心的な思想のひとつである「死んだ女性に囚われた男性の物語」をメインのストーリーに置き、そこに関連のない幾つかの話が互いに類似的な部分を絡ませながら、本筋に寄り添っていく展開が興味深くい面白いところです。
ただ、それらが結びつきだすのが、物語の後半になって動きはじめます。
どんな内容なのか、どこが見どころなのか、などハッキリしない状態が長時間続くのは、観る側にストレスを与えかねません。
それは、平坦でつまらない作品になってしまうのに、濱口監督は意図的に遅延させているように思われます。
映像には色んな情報が散りばめられております。 そんな映像を瞬時に、しかも単純に表現してしまうと貧弱なものになってしまう。 しかし、あえて映像を解釈せずありのままの映像として受け取ることで、物語全体が豊かさと興味を維持できると考え、濱口監督はこれを意識したのです。
主人公の心が機微に動く描写のように、この作品全体が微妙で繊細な作りこみをしており、これを観る側が拾っていくのもこの作品の見どころかもしれません。
これは、日本の映画だからこそ出来る仕上がりでしょう。
またこの作品は、セリフが少ない分、役者さんたちの演技力が重要になります。
役者の皆さんが、どう表現されるのかも、見どころのひとつです。
村上 春樹の世界観を映像で観れるので、彼のファンは観るべきおすすめ作品だと思います。
また、大迫力のエンターテインメント映画ではなく、繊細に作りこまれた文学的な作品を楽しみたい方に、この映画はおすすめです。
じっくり「ドライブ・マイ・カー」の世界に浸ってください。
おすすめ度
★★☆☆☆ 2点
主要キャスト・スタッフ
家福 悠介 (西島 秀俊) |
渡利 みさき (三浦 透子) |
家福 音 (霧島 れいか) |
高槻 耕史 (岡田 将生) |
イ・ユナ (パク・ユリム) |
コン・ユンス (ジン・デヨン) |
ジャニス・チャン (ソニア・ユアン) |
柚原 (安部 聡子) |
他 |
監 督 | 濱口 竜介 |
脚 本 | 濱口 竜介 |
大江 崇允 | |
編 集 | 山崎 梓 |
他 |
2021年 公開 179分 日 本
簡単な、あらすじ
引用元:ドライブ・マイ・カー / © 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
舞台俳優であり演出家の家福 悠介は、TVドラマの脚本家で妻の 音(おと)と幸せそうに毎日を過ごしていた。
過去に娘を亡くした悲しみを乗り越え、二人は強く結びついているように見えた。
家福と 音 はSEXのあと、いつも 音 が唐突に物語を語りだす。
今回は、女子高生が片想いの山賀という青年の家へ空き巣に入る話だ。
しかし、朝になると 音 は、物語の内容や物語を話したことさえ覚えていない。
家福は 音 が話す物語を翌日、彼女に話してあげる。 彼女はそれをTVドラマの脚本にしていた。
あるとき、家福は国際演劇祭の審査員として、ウラジオストックへ行くことになり、空港へと愛車「サーブ900ターボ」を走らせる。 しかし、寒波のためフライトがキャンセルとなってしまう。
仕方なく家へ、とんぼ返りをすると、音 は誰かと激しく抱き合っていた。
家福は、それを見なかったことにし、空港近くのホテルに泊まることに。
家福は結局、昼間に目撃した出来事を 音 に問いただすことができなかった。
娘の法事の夜、家福と 音 はSEXをする。
SEXをしながら 音 は、ヤツメウナギの話と空き巣に入った女子高生の話の続きを、話し出す。
ある日、音 は家福に「帰ってきたら話がある」と言ったその日の夜、家福が帰宅すると 音 が床に倒れていた。 意識は戻らず、最後の別れも交わすこともできずに 音 は死んでしまった。
二年後。
広島で行なわれる国際演劇祭のため家福は、広島に長期滞在して「ワーニャ伯父さん」の演出を務めることになる。 各国からオーディションで選ばれた俳優がそれぞれの役を自国語で演じることになっていた。
自分で愛車を運転して広島に来た家福だが、事務局から事故のトラブルを避けるため、仕事場と宿泊先の車移動は専属のドライバーをつけて欲しいと依頼される。
そこへやってきたドライバーは、渡利 みさき。
顔にキズがある寡黙な二十代の女性で、車の運転が有能なので家福は彼女に好感を抱く。
こうして、みさきの運転する家福の愛車での、行き来がはじまる。
みさきは、ある過去を抱えて生きてきた。
家福もこの二年間、喪失感と妻の秘密にさいなまれて生きてきた。
みさきと時間を共有するうちに、家福はそれまで目を向けようとしなかった、あることに気づかされていく。
そして二人は、お互いが語らなかった大きな心の秘密を話し出す。
2人を乗せた家福の愛車「サーブ900ターボ」は、どこに向かうのだろう・・・
その結果、最愛の妻を亡くし苦悩する男が、葛藤の果てでたどり着く先とは・・・
「ドライブ・マイ・カー」を考察します
本作で疑問に思ったところを、独断と偏見で考えてみました。
なぜ、音 は浮気を繰り返したのか?
引用元:ドライブ・マイ・カー / © 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
これは「夫にバレないように」ではなく、「本当は、夫に問いただしてほしかった」のだと思いました。
具体的には、もし浮気がバレたくなければ、わざわざ男を自宅に呼ぶでしょうか。
しかもその行為が、玄関から数歩で見えてしまう場所なのも不思議です。
ヒントは、短編小説「シェエラザード」にありました。
SEXをしながら 音 は、空き巣に入った女子高生の話をしますが、この小説には「もう一人の空き巣」は登場しません。
映画では、
「空き巣に入った女子高生と、もう一人の空き巣が鉢合わせし、彼女はもう一人の空き巣を殺してしまう。 そして、血まみれの死体を山賀の部屋に残して、彼女は家に帰ってしまった。 翌日、山賀は普段通りに過ごしていたが、再び女子高生が山賀の家に行ってみると、玄関には監視カメラが設置されていた。 彼女はその監視カメラに向かって、自分が殺したと言い続ける。」
映画では、なぜ「もう一人の空き巣」を追加したのでしょうか?
人を殺してしまったら、罰を受けるのです。
つまり本当は、夫に浮気のことを問いただして欲しかった、ことを表現したのだと思います。 これが、音 の想いだったのでは。
そして、山賀の素知らぬ顔は、浮気に気づいているのに気づかないふりをしている夫を表現しています。
ついに 音 は決心し、家福に「帰ってきたら話がある」と伝えますが、その日に亡くなってしまい、話の内容は闇の中となってしまいました。
なぜ、家福は「ワーニャ伯父さん」を演じられなくなったのか?
家福は、音 の死をきっかけに「ワーニャ伯父さん」を演じることができなくなってしまいます。
「ワーニャ伯父さん」は、ロシアのアントン・チェーホフの戯曲です。
ワーニャは、田舎の土地を管理しながら、ほそぼそと暮らしていました。 そして、亡くなった妹の夫の大学教授を尊敬し、彼のために一生懸命に働いていました。
さらに、亡くなった妹と大学教授との間にできた娘ソーニャも、父である大学教授に尽くしてきました。
しかし、大学教授が年老いてくると、じつは何の中身のない人間だったことに、ワーニャは気づいてしまいます。 さらに大学教授は、ワーニャが一生懸命に管理してきた土地を売りに出すよう提案をしてきます。
ワーニャは絶望し、しだいに大学教授を殺すことも考えてしまいます。
一方のソーニャは、不器用なためか意中の医者に振り向いてもらえず絶望していました。
ソーニャは自分が絶望しながらも「どんなに辛くても生きていかねばならない」とワーニャ伯父さんを慰めます。 ソーニャは、みさきと重なっているように見えます。
家福は、妻の 音 と、2人の間にできた娘の死の辛さを、ワーニャと重ねてしまい、ワーニャを演じられなくなってしまったのです。
物語の家福のセリフで「チェーホフは恐ろしい。 彼のテキストを口にすると自分自身が引きずり出される。 そのことにもう耐えられなくなってしまった。」と言っています。
なぜ、家福は高槻と飲みに行くのか?
引用元:ドライブ・マイ・カー / © 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
家福は、音 がなぜ他の男と寝なければならなかったのか、分からないまま 音 を亡くしてしまいました。 ひょっとしたら、音 は高槻とも寝たかもしれません。
音 と親しかった高槻と話すことで、その答えを見つけようとしたのです。
そして、高槻にお酒を飲ませて、余計なスキャンダルを聞き出し、彼を落とし込もうとしたのかもしれません。
さらに、高槻にワーニャ役を指名させたのは、ワーニャのような絶望感を彼に感じてもらいたかったのかも。
ラストの解釈は?
引用元:ドライブ・マイ・カー / © 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
広島国際演劇祭での「ワーニャ伯父さん」の舞台は大成功し、時がたちます。
韓国のスーパーで買い物をしたみさきが、赤いサーブに乗り込み走っているシーンで映画が終わります。
車には、ゴールデンレトリバーらしき犬がいて、みさきの顔のキズも心なしか目立たなくなり、顔の表情も明るくなっているのが印象的です。
これはどういう状況なのか?少し考えてみました。
最初は、広島での公演が大盛況だったので、韓国でも公演することになったのだと思いました。
出演者、スタッフ、ワンちゃんなど総出で、公演期間中を韓国で過ごしているのだと想像しました。 もちろん赤いサーブも、カーフェリーで運んだのです。
この解釈は少し無理がありますかね。
次の解釈は、みさきの母親が在日韓国人だったから。 ネットでは、これを理由にしている方が多いみたいです。
母親が在日韓国人という理由で、何かしら差別を受けていた。 そして夫とも離婚し、そこから逃れるように北海道の人の少ないところで暮らしていたのです。 さらに、差別や寂しい環境などが引き金となって情緒不安定となってしまった。
みさきにとって日本は、家福以外に心を許す人は誰もいない、そして母親を差別した国に未練などなかったのです。 一方の家福も、最愛の妻と娘を亡くし希望を持てなくなっていた。 家福もまた、みさき以外に心を通わせる友がいなかった。
みさきは、母親の生まれ故郷に思いを馳(は)せていた。
そこで、みさきと家福は、生きる希望を求め、一緒に新天地の韓国に移住したのです。 2人の関係は男女の仲ではなく、心を許しあえる親子又は友人のような間柄。
また、みさきが犬好きなのは、物語中で韓国人夫婦宅での食事のシーンで分かるところなので、2人は新天地で犬を飼うことにしました。
家福は、緑内障が進行し、韓国に持って行った赤いサーブを運転できなくなってしまったが、みさきが運転を担当している。
これが個人的なラストの解釈ですが、みなさんはどのような解釈をされますか。
「ドライブ・マイ・カー」の小ネタ
原作の舞台は東京です。
しかし濱口監督は、車の走行シーンを東京では自由に撮影できないと考え、当初は韓国の釜山を主なロケ地と決めていたそうです。
しかし、コロナ禍で海外ロケが困難となったため、脚本を練り直して主な舞台の変更をおこないました。
「ドライブ・マイ・カー」は、妻を亡くした男の再生の物語です。 原爆という傷から復興した広島は、物語のコンセプトにピッタリだったので、この地を選んだそうです。 物語全体の3分の2が、広島県内で撮影されました。
スウェーデンのサーブ900が、原作、映画ともに登場します。
原作では、黄色のコンバーチブルカー(オープンカー)なのに対して、映画では風景に映えるなどの理由から赤のターボ16、しかも3ドアハッチバックに変更されました。
感 想
引用元:公式サイトより / ドライブ・マイ・カー
自分には、芸術的感性が希薄なんでしょうか。
正直、カンヌやアカデミー賞など数々の賞を受賞した理由がよく分かりませんでした。 レビューも、みなさんべた褒め。
この作品は、絶望をした人間が、演劇を通して生きる希望を見つけるヒューマンドラマです。
典型的な村上 春樹の作品。
演劇という要素を絡めながら、絶望から希望へと変化していく過程を、静かにそして繊細に描いてる構成が特徴だと思います。 観てみると、まるで小説を見ているような感覚でした。
音 と家福を、陰影を使って描くシーンは、2人の関係性を。
後半の北海道で、実家近くに着いた時のピタリと止んだ音。 そして、雪の上をザクザクと歩く音、木々が冷たい風になびく音は、虚無感を。
物語の中で、色々なところで機微に表現しているのは、よく考えられているなと感じました。
でも、自分の中では、みなさんのレビューほどには・・・
あとで知ったことですが、この映画は3時間ほどの長尺作品だったのですね。
不思議と作品を観ていても、長い・飽きるとか間延びしているという感覚は持ちませんでした。
それだけこの作品には、魅力があるのだと思うのですが、この内容で3時間は必要だったのかと少々疑問を持ちました。
近年、賞を取るには多様性を意識する必要があるそうです。
だから、色んな地域の人や多言語が、作品に盛り込まれております。
正直、ラストの生きる希望を話すユナの韓国手話のセリフは、話の内容的にはジーンとくるのに、手の動きが気になって字幕に集中しづらかったのが残念でした。
多様性を意識するのは分かるけど、手話にする必要があったのだろうか。
自分はこの作品を、何の予備知識も持たず、小説も読まず、当然内容も知らずにブルーレイを購入して鑑賞しました。
前半から中盤にかけて、違う要素である演劇を絡ませながら物語が淡々と進む展開に戸惑いながらも観ていると、後半に入って少しずつこの作品の特徴を理解してくるのですが、観終わってもまだ十分に内容を理解ができません。 しかもラストは何?
じっくり、この作品を自分なりに努力して理解し、咀嚼(そしゃく)してみたのですが、自分の感受センサーが鈍いのか、今一つこの作品が絶賛される理由が最後まで分からなかった。
この作品を観て思うことは、予備知識を得てから観れば、もっとこの作品の素晴らしさに触れることができたのかなと、あとで残念に思いました。
1回の鑑賞では、なかなか理解できない難しい作品だと感じます。
不思議と余韻が残る作品だと思うのと同時に、観ている者の感性が試されているような感じがして、感性の薄い自分には観終わってしばらくは疲れてました。
皆さんはどうでしょうか。
この作品を観て、琴線に触れた方は、きっと芸術的感性に優れた方なのだと思います。 うらやましいです。
独断と偏見の、自分なりの感想でした。
引用元:ドライブ・マイ・カー / © 2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会